ツアー最後の観光は、中尊寺。 行く年くる年でよく見るのですが、実物をみたのはこれが初めてです。 正直、実物の金色堂には心底感動しました。 百聞は一見にしかず、というか、実物は、映像には映らないド迫力があり、あたり一帯が別世界でした。
金色堂は、手のこんだ装飾が漂わせる気品なのか、見るものを圧倒するオーラが出ていて、 思わず息を呑み、拝みたくなるお堂でした。 「素晴らしい」という言葉では失礼だと思うほどです。
そしてもっと驚いたのは、奥州藤原家滅亡後50年後とはいえ、鎌倉幕府が金色堂を覆うお堂(鞘堂)を建て、金色堂を風雪から守ったことです。
奥州藤原家を滅ぼした鎌倉幕府ですが、価値ある金色堂は保護した。 偉い!鎌倉幕府。 金色堂は今も昔も変わらぬ感動を見る人に与えていたのでしょう。 なんだか嬉しい。
上の写真は本堂の上の広場みたいなところ。 この左手に金色堂があります。
中尊寺というのはこの山全体の総称だそうです。
本寺である「中尊寺」と山内17ヶ院の支院(大寺の中にある小院)で構成される一山寺院です。本堂は一山の中心となる建物で、明治42年(1909)に再建されました。
中尊寺の歴史をおやじなりに要約してみました。 出典は中尊寺のHPです。ここ→ です。
中尊寺は嘉祥3年(850)、比叡山延暦寺の高僧慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)によって開かれた。
その後、12世紀のはじめに奥州藤原氏初代清衡公が、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱(前九年・後三年合戦)で亡くなった生きとし生けるものの霊を敵味方の別なく慰め、「みちのく」といわれ辺境とされた東北地方に、仏国土(仏の教えによる平和な理想社会)を建設しようと、中尊寺の造立に着手し、釈迦・多宝如来の並座する多宝寺を建立し、続いて百余体の釈迦如来を安置した釈迦堂を建立。その後多くの伽藍が造立され、その規模は寺塔40余宇、禅坊300余宇に及びました。
二代基衡公は、父の志を継いで薬師如来を本尊とする毛越寺の造立をすすめ、三代秀衡公は阿弥陀如来を本尊とする無量光院を建立。三世仏(過去釈迦、現世薬師、未来世阿弥陀)を本尊とする三寺院の建立は、すべての生あるものを過去世から現世さらに未来世にいたるまで仏国土に導きたいという清衡公の切実な願いの具現でもあった。
平泉はおよそ100年近くにわたって繁栄し、みちのくは戦争のない「平泉の世紀」となった。しかし、平氏政権を倒した源義経が、兄頼朝と対立し平泉に落ちのびて間もなく、義経を保護した秀衡公が病死すると、四代泰衡公は頼朝の圧力に耐えかね義経を自害に追い込みます。その泰衡公も頼朝に攻められ、文治5年(1189)奥州藤原氏は滅亡。
鎌倉時代以降、大きな庇護者をうしなった中尊寺は次第に衰退し、建武4年(1337)の火災で多くの堂塔、宝物を焼失。しかし国宝建造物第1号の金色堂をはじめ、建築、絵画、書跡、工芸、彫刻、考古、民俗の各分野にわたる文化遺産が現在まで良好に伝えられ、東日本随一の平安仏教美術の宝庫と称されています。
平成23年(2011)に中尊寺を含む「平泉の文化遺産」が世界文化遺産に登載された。
諸行無常の響きあり。。。そんな中で金色堂は守り抜かれてきた、、のですね。
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東物見台からの眺め |
このツアーで中尊寺観光に当てられた時間は昼食も含めて1時間40分しかありません。
オプションの昼食は白金豚鍋膳。 おやじはどうしてもワンコそばが食べたいので自由行動をチョイス。 集合時間30分前 参道の月見坂の途中で そば処義家を発見。
早速入ってワンコそば一重をオーダー 二重だとおわんが24椀だそうです。
美味しそうでしょ!! ワンコ蕎麦は、少し細くて、少し柔らかめの田舎蕎麦みたいな所感です。 蕎麦つゆはみりんが少し強めでやや甘め。 食べやすいお蕎麦です。
とろろは、 ここまで甘めのとろろは初めてです。蕎麦つゆで伸ばしたのでしょうか? それとも山芋自体が甘いのでしょうかね? 他のお客さんはとろろ蕎麦をオーダーしていたのでここの自慢料理なのかもしれませんね。
お店の中
慌ただしい昼食となってしまいましたが、美味しいワンコそばを味わえてよかったなあ。。
さて、二泊三日の東北旅行もあとは帰るだけとなりました。さらっと代表的な東北の観光名所を回ったツアーでしたが中身は濃く、私どもには価値あるツアーでしたね。